ミニMiniだっちもね通信
 
 
   2006 紅葉号    
           
       ・柿右衛門
   ・たぬきの彫金作品
   ・教訓 
ヒルの恐怖&ソフトボール
   ・
幕末にロマンを賭けた男河井継之助を考えるー其の壱ー
     





《柿右衛門》


先日、燕市内の方から有田焼の柿右衛門の壷を見せてもらいました。(一個で中型車が一台買えるくらいの品物)
それは価値がわかるわからないでなく、こんな機会めったに無いと目に焼き付けようと只々ジーッと見つめていました。
柿右衛門は現当主で14代目(佐賀の有田で400年)なのですが、12代目の時に、濁手を(柿右衛門独特の乳白色の白色)復活し、その白に対して赤絵の色彩がいわゆる「余白の美」という独特の世界を生み出している日本の磁器の第一人者です。
柿右衛門と言えば、先々代の12代柿右衛門と清酒東長の瀬頭社長の祖父は大の仲良しだったとか。
嬉野温泉で酒を酌み交わしながら、お互い夢を語りあったといいます。現代でも14代柿右衛門と東長の瀬頭社長は親交があるそうで、言ってることも似てます。
「商い優先の時代で、モノ造りの芯棒が一本はずれた状態になっています。良い伝統を取り戻さないと日本の磁器の歴史が途絶えます」。    柿右衛門談
柿右衛門は「たとえ時代が変わっても、変えてはいけないモノがある」と力説しています。

 



《たぬきの彫金作品》


燕の鎚起銅器(ついきどうき)作家のおかもと工房、岡本兄弟の弟さん秀雄氏の彫金作品は、あたたかみのある作で定評がありますが、あらたに「たぬきシリーズ」をリリース。確かな技術の上にユーモラスな絵柄。
今までに無いタイプの逸品で、秀雄氏の真骨頂と言えるんじゃないかなぁ。






《教 訓
 ヒルの恐怖&ソフトボール

その@ヒルの恐怖

9月のある雨の日、イベント用の水汲みをするため、酒屋と酒蔵4、5人で菅名岳を登りました。蒸した雨の日だったのでまた山ヒルがいるなーと思ったら、やっぱりウジャウジャ出てきました。
私の前を歩いていた酒屋さんの雨ズボンに次から次へとヒルが襲いかかり、もー大変、でも私はというとなぜかあまりヒルが付かない。
「フフフ、なぜか私だけ特別なようだ」
そう調子にのって水汲みが終わり、車止めまで降りて雨ズボンを脱ぐと「ギャ〜!」
生足にヒルが大量に10匹以上ひっついているではありませんか。すでに大流戦。
雨ズボンの裾が絞ってなかったので、ズボンの中からヒルが生足を登ってきたのでありました。
「自分だけ‘‘特別’’なんて事は無いんだな」
と血ダルマの両足を見ながら私は確信しました。


そのAソフトボールにて

今年のソフトボールリーグ戦、なぜか私は守備の調子が良く、外野守備でファインプレーなんかもあり、若いもんから「どうしたんだ純夫さん」と冷やかされながらも
「フフフ、もしかして私は上手なのかも」
と、心の中で得意になっていました。
そして9月のある試合、守備力に自信をつけた私はライト前ライナーをを突っ込んで捕ろうとしたら、やってしましました。
右手親指脱臼。
「調子にのりすぎると痛い目にあうなぁ」
救急のお医者さんにおもいっきり指を引っぱ張られながら、私は確信しました。


 



幕末にロマンを賭けた男河井継之助を考えるー其の壱ー》

0月7日、長岡で第五回米百俵祭りが行われました。
小泉前首相の所信表明演説で、全国区になったご存知、米百俵の話は幕末の戊辰戦争が終わった後の小林虎三郎を中心とした話です。
そして河井継之助の活躍は幕末の動乱から戊辰戦争が終わる直前までの話で司馬遼太郎の小説「峠」で一躍有名になりました。
言ってみれば越後長岡藩を大河ドラマに例えれば、前編と後編のようなもので前編の河井、後編の小林と7万石そこそこの地方の小藩としては何とも「味のある話」が多い珍しい藩だったと思います。
河井継之助はその没後、あの西郷隆盛が「北に人材がいなかったと言われるが越後の河井継之助は‘‘人’’だった。もし彼が西で生まれていれば、きっと新生明治日本を動かす程の人だったのに惜しいことをした」と言ったそうです。
たまたま小国に生まれたために悲劇の最後を遂げた河井ですが、時代を見る目(武士の世は終わり商人の時代が来る)は坂本龍馬より早かったという説もあります。
その河井が人として「偉い、偉い」と敬愛していたのが小林虎三郎。
二人は考え方の全く違うライバル同志でしたが、実は幼馴染でケンカをしながらもお互いを認めあっていたという美しい関係でした。


 


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