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  アイバ屋酒店のだっちもね通信
    2019 立冬号    

 ・菅名岳近藤社長 黄綬褒章   
 
・早朝5時45分ハチとの決戦
 
・新潟におい展
 ・酒も人も縁
 
・松郷屋焼と焼酎徳利
   
  




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菅名岳・近藤社長 黄綬褒章

毎年、国から表彰される秋の褒章のうち、その道一筋に励んだ人を対象とする黄綬褒章に新潟県から三名が選ばれました。
なんとなんと、そのうちの一人が清酒「菅名岳」の近藤伸一社長でした。
長年に渡り「寒九の水汲み」を続けてきた功績が認められたそうです。
「なぜ私が」と近藤社長は恐縮すると共に「私だけの受賞でなく水汲みに関わってくれる関係者、そしていつも水を汲んで下さる参加者すべての方々の受賞です」と言われてました。
本当その通り。そして「継続は力なり」ですね。



 
 

早朝5時45分ハチとの決戦


ある日、父が「なんかハチが多くねーか」と。
慌ててうちの軒先を見るとハチが数十匹飛んでいて見事なハチの巣ができあがっていた。
幸いスズメバチではなくアシナガバチと一安心、の矢先に突然威嚇で襲ってきた一匹のハチに思わず仰け反ってしまった私はもしかして「ビビり」か!
しかし、意を決してハチ退治を決意した私はホームセンターに行き「アースハチアブスーパージェット」を2本買ってきて戦いに備えた。
ハチは昼は活発に活動するので退治は夜か早朝がいいそう。

翌朝5時45分、まだ日が昇る前に冬用防寒具を全身にまとい、軍手も2枚重ね、マスク着用完全防備でいざ決戦へ。
アースハチアブスーパージェットを両手に持ち二刀流のダブル攻撃。
もし、失敗したら一斉に襲ってくるのだろうか!
死ぬかもしれない…と思いながら、ハチの巣めがけ両手から一斉噴射!
ボト、ボト、ボト!ハチが20匹も30匹も次から次へと下に落ちてくる!
勝負は一瞬で決まった。
ハチは飛ぶ間もなかった。大勝利だ。
ハチにしてみればまさかの早朝闇討ちに違いない。
私は思った。   ハチさんゴメンね〜 

    
     

 

                  
新潟におい展
夏の終わりに新潟市で「におい展」なるものがあり家族で行ってきました。
「くさや」に「ドリアン」「臭豆腐」そして「シュールストレミング」。果ては戦国武将の匂いや男性の加齢臭の匂い、虫や花と様々な匂いのオンパレード。
その中でやはり一番人気?はスウェーデンのニシンの缶詰シュールストレミング。
若い人が多かったけど皆「オェー」と凄い顔して部屋からでてきていました。
うちの子も「オェー」と咳き込んで半泣き顔。
相当なんだろうなと気合を入れて部屋に入りフタを開けて近くで匂いを嗅いでみると「意外とそんなでもない、魚が腐ったような匂いはしたけど」。
多分缶詰を開けて時間がたってるからじゃないかな。あれが封を開けた瞬間だったらもの凄いんだろう。かと言ってそれは体験しなくてもいいですけどね。(まして口の中に入れるなんて恐ろしすぎる)
ところで腐敗と発酵って物理的には全く同じ現象だってこと知ってましたか?
人にとって有益なのが発酵、有害なのが腐敗。ただそれだけの違いなんですよ!

                               
 

酒も人も縁


いつも思うことだが、新潟県内でも日本全国にでも素晴らしい酒や酒蔵さんがごまんとあるなかで、縁あって出会ったお酒や酒蔵さんを好きになったり、ファンになってお付き合いしていくことってもの凄い自然だしとても素敵なことだと思う。
人と人のお付き合いだって日本中や世界中のすべての人と出会ってるわけではなくても、この人だという人と付き合っていけたらとても楽しいし、こんな幸せなことはない。
酒も人も一緒。
縁を大切にするお付き合いの中にこそ心の豊かさってあると思うのですが。

 
 

松郷屋焼と焼酎徳利
皆さんは「松郷屋焼」をご存知ですか?
幕末から明治・大正・昭和にかけて旧巻町の松郷屋地区や角田山麓で焼かれた焼き物を総称して「松郷屋焼」といいます。
福島県相馬の相馬焼から伝わった焼き物の技術を地元の八代目阿部勘九郎が始めたのがきっかけと言われていますが、その阿部勘九郎が1860年に松郷屋焼の代名詞となる焼酎徳利を考案しました。
当時は北前船が盛んで、沼垂の酒造家の造った焼酎を松郷屋焼の徳利に詰めて年間25〜30万本もの焼酎が北海道まで運ばれたそうです。
新潟というと日本酒が有名ですが、ある時期焼酎の生産も盛んだったのですね。おそらく酒粕からできる粕取焼酎が主流だったと思われますが。

しかし時代がすすむと北海道では地元の馬鈴薯で焼酎が生産されるようになり、さらにガラス瓶が全国で普及してきて、越後の焼酎徳利は需要が減少して、明治34年頃にはその生産が中止されました。
それでも松郷屋焼は日常雑器や土管、瓦などの生産に転じましたが、中々思うようにはいかず、徐々に衰退し昭和23年に最後の窯元が廃業して完全に松郷屋屋焼は生産を終了しました。

幕末から明治にかけての約40年間に相当の量の焼酎を北海道に運び、そして不意に姿を消した松郷屋焼。

その名残を追跡しようにも実は北海道では松郷屋屋焼の破片はあっても原型のまま残っているものは数少ないのだそうです。
それは松郷屋焼の口の形状により、北海道の方が飲まれる時は口の部分を割って飲み、器は捨ててたからではないかと言われています。(漁師は船で飲み器は海に捨てた)そのためちゃんと現存している松郷屋焼は今ではとても貴重なものなのだそうです。

清酒「鶴の友」の樋木尚一郎社長さんは子供の頃からお父さんとかつての窯元や骨董屋を回り、何十年もかけて松郷屋焼をコツコツと集めてきたそうです。
そして今、松郷屋焼の文化を伝えるために鶴友博物館(樋木酒造事務所兼店舗)で数々の松郷屋焼を所蔵しており、催事の際は後援として松郷屋焼を一般公開して皆様に披露しております。


 
 


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